1985年9月22日、米財務長官ジェイムズ・ベイカー、英蔵相ナイジェル・ローソン、西独財務相ゲルハルト・シュトルテンベルク、仏経済財政相ピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の蔵相の竹下登は、5時間に及んだという実務者間協議を経て、形式的な短時間の会議でプラザ合意に至った。
円高ドル安誘導の協調介入をおこなう協定である。9月20日に1ドル=240円台だった円は直後から急騰し、9月末には216円、年末には200円台、86年には180円の超円高が進行した。
これにより日本製品の国際的ドル表示価格は高騰。輸出産業は停滞し、それが経済全体に波及して、日本は円高不況に陥った。プラザ合意を振り返った米国中央銀行FRBのボルカー議長が「私が最も驚いたのは、その後総理大臣になった日本の竹下大蔵大臣が円の10%以上の上昇を許容すると自発的に申し出たことである。(中略)円の切り上げ幅が大きければ大きいほど、ヨーロッパ諸国は自国の競争力について安心できるのだった」と述べるのも当然だ。
しかし、日本経済はこの円高に耐えて不況を超えていった。第一に、品質・デザインなどの「非価格競争力」、第二に各産業に設置された産業ロボットが支えた「価格競争力」が他国を圧倒していたからでもある。
だが、当時の輸出大企業が生む日本製品の強い「輸出競争力」を論じるとき、忘れてはならないものがある。それは労働者、特に下請け中小企業の低賃金、長時間労働、しかも「サービス残業」という違法な搾取なしには可能ならざるものだったということだ。同時に、大企業においても労働者による業務改善・生産性向上・創意工夫は、「QC(品質管理)サークル」という正規の勤務時間外に行われるサークル活動の形態をとることで、無償で資本に吸い取られた。
そこへ加えて、超金融緩和と政府による財政支出の不況対策である。公定歩合(日本銀行の基準金利)は、11月に景気が底をついて回復に向かった86年に4回、87年に入ってもさらに1回引き下げて、5%から当時としては超低利の2・5%になった。
米国債が売れなくなることを懸念した米国に日本の利上げは許されなかったから、超低金利は89年途中まで約3年近く据え置かれた。好況下のカネ余りは株や土地への投機でバブルを生み、バブルは「はじける」運命にある。
値上がりした宅地購入に借り入れたローンの返済で圧迫される労働者の生活が、90年代初頭の後、不況とともに長引くばかりだった。