変動したのは為替レートだけでない。政府・財界が労働組合へ「階級闘争」を仕掛け、労働者は抵抗力を奪われて、労資関係も激変した。
81年の米国で起きたのは1万1345人にも及ぶ航空管制官の大量首切りだった。発端は、レーガン大統領の通告。連邦職員1万3000人が賃上げや労働時間の短縮などを要求した48時間ストライキに対して解雇をちらつかせて職場復帰つまり「スト破り」を煽ったのだ。
1300人ほどの管制官は労働組合が準備したピケを超えた。このスト破りに管理職や軍隊からの派遣あわせて3000人が加わって、便数は減らせど飛行機を飛ばし続けた。スト差し止めを裁判所が下し、公権力は命令違反を理由に75人を逮捕起訴。ストライキ1日当たり100万ドルの罰金を科した。労働組合は交渉団体としての資格を剥奪され、壊滅させられた。
米国では政府による組合つぶしを契機に、民間労働者の争議行為も激減した。代替労働者を用意して操業を継続できることを経験から学んだ資本は、ストライキを逆手にとって組合潰しの好機とするようになっていく。
日本では、「第二臨調」の答申を受けて国有鉄道が分割・民営化される過程で、国鉄労働組合が弱体化させられた。
当時の首相は、旧帝国海軍あがりのタカ派で一貫して改憲を唱えた政治家の中曽根。「風見鶏」とも言われたが、第二次世界大戦を「大東亜戦争」と呼び、“レーガン詣で”をすれば「不沈空母」発言、首相として戦後初の靖国神社公式参拝などの言動は当時、マスコミを賑わせた。
「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」と、のちに『AERA』96年12月30日・97年1月6日合併号の取材に不当労働行為を告白している。
「今でも私は母親におぼれている」と言い、材木商で製材所も営んでいた実家で「ストライキが起きたとき、母は父を温泉に行かせて、たった一人で組合相手に団交やったんだから。気丈な人でしたね」と回想してもいるから、「気丈な」母親への強い執着の裏返しから労働組合に対する私怨が始まったのかもしれない。
いずれにせよ、国鉄労働組合という最大組織が「分解」した日本労働組合総評議会(総評)は89年に解体。それ以前に「労働者意識」は解体されていた。「メザシとみそ汁のつつましやかな食卓」を囲む財界人=土光敏夫・第二臨調会長なるマスメディアを使った演出の虚構を見破れないほどに。
(この部おわり)