ソ連崩壊まで米国は日本や西ヨーロッパ同盟諸国と共同して、東側諸国の封じ込め政策を徹底し、その中で敗戦後の復興をとげた日本はアジアで、ドイツはヨーロッパで経済影響力を強めた。他方で米国経済は「双子の赤字」に苦しむようになる。しかし、ソ連崩壊後の92年11月に誕生した米クリントン政権には「同盟国」の利益を守る必要がないばかりか、ソ連崩壊後に経済が荒廃した旧東側諸国の新たな市場と安価な労働力が用意された。米国は獰猛なまでに市場開放を押し付けて、自国の利益のみを考えることができるようになったのだ。
このような状況の中、93年7月に東京で開催された経済サミットで、米クリントン大統領と宮沢喜一首相が日本経済「改造」計画ともいえる「日米包括経済協議」の開始を合意。しかし、汚職に伴う国民の政治不信を背景として自民党が分裂し、宮沢内閣は崩壊。93年8月には非自民連立の細川護熙政権が誕生した。
94年2月の日米首脳会談では異例の物別れに終わり、日本のメディアも米国にもの言う姿勢を評価したものの、政治献金疑惑により9か月足らずで退陣。羽田孜政権の2か月を挟んで94年6月に「自社さ」連立政権が誕生すると、ようやく米国の「不運」は村山富市政権のもとで決着することになる。
日本の政府調達を米国企業にも開放させ、金融においては米国保険会社が参入できるようにし、2000億ドルにものぼる日本の公的年金資金を米国の投資顧問会社の投資・投機資金にする規制緩和がおこなわれた。
クリントン政権発足とともに大統領経済諮問委員会委員長に就任したローラ・D・タイソンは著書の中で、米資本は「日本企業と競争しているのではなく、日本のシステム全体と競争させられている」と述べた。年功序列賃金と終身雇用制によって社内に蓄積された知識や技術、他社製品と比べて割高だとしても「系列」から調達する素材や部品は高品質な製品を生み出す。この経済成長を遂げる「日本的経営」の解体に米国は乗り出したのだ。
米国の思惑と人件費抑制で利益をあげたい日本財界の思惑は一致した。95年5月に日経連(現 経団連)は「新時代の『日本的経営』」を発表。
終身雇用制を破壊し、経営者と高級技術者だけを長期雇用する一方で、中間職業的なサラリーマンは派遣労働やパートなどに置き換えていく。ところが90年代に電機産業内で横行した大幅な人員削減は日本の技術者のアジア新興国諸国への流出とライバル育成につながり、日本経済の敗北を招くこととなる。