神奈川朝鮮中高級学校の創立は、1951年4月5日です。先立って1946年2月25日に創立されていた初級学校の児童が進級する中学校相当の学級が必要になったことから、設けられました。
この1951年は、サンフランシスコ講和条約(以下、「サ条約」と記す)と日米安保条約が9月8日に調印された年でもあります。
翌52年の4月28日に発効したサ条約によって、日本は連合国の占領下からの独立を果たしたことになっています。
そして、サ条約の第二条(a)によって、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」ことになりました。
言うまでもなく、この時、1910年以降の植民地政策である「皇民化」からの原状回復義務として、朝鮮民族に対する補償の一環に言語や文化の再取得のための教育を位置づけて保障すべきだったのは、日本の政府です。
ところが、日本政府はそれをしませんでした。
実質的に植民地支配が終わった1945年以降、朝鮮学校のもととなった、朝鮮語を教える「国語教習所」を発足させたのは在日朝鮮人自身の運動です。
今日まで、1948年と1949年の「改組令」や「閉鎖令」という大きな「弾圧」や、朝鮮学校を学校として認めないような内容の通達が出されることはあっても、国庫から補助金が出されることは一切ありません。
朝鮮学校の高校無償化適用除外に反対の意見を表明するとき、自治体の補助金や助成金の打ち切りを批判するとき、多文化共生や多様性、国際化の文脈で擁護する論や、教育を受ける権利といった普遍的な人権の立場から問題指摘する立場は重要でしょう。
しかし、なぜ朝鮮学校ができて今も存在しているのかを考えるならば、それだけでは不十分です。その際、必要なことは、「朝鮮学校を知る」ことだけではなく、「日本の歴史を知る」ことです。
植民地支配の誤りを認めることで、私たちは、解放民族に対して民族教育の権利を否定する公権力の歴史的文脈を無視した差別に加担しないことができるに違いありません。
加えて歴史観の確立は同時に、形式的には独立国になったものの、実質的には米国の従属国の地位に置かれ、労働者の生活が優先されない日本社会の現段階に変革をもたらしていく日本人民の力にもなるはずです。
教育宣伝部長