山登りにさほど詳しくない人が、この山名に接すると「ドキッ」とするのではないだろうか。人名は元より地名であっても「悪」が付く例は殆ど聞かない。だから、こんなアウトローな名の山は、有象無象のマイナーな山、そんなイメージではないだろうか。
実はマイナーどころかメジャー中のメジャー、ニッポン第6位の標高を誇り、堂々の日本百名山でもある。そもそも悪沢岳なる名は、明治の登山黎明期に、かなり怪しげな経緯で確認されたもの。一般的には近在の2峰を含め「荒川岳」の山名の方が通りがいい。荒川三山とも呼ばれ、どれも3000mを越えているから並の三山ではない。中岳・前岳、そして最高峰が東岳で、これが件の悪沢岳に他ならない。
ところが、国土地理院の地形図に単に「東岳」と記載されたところから、『日本百名山』の創造主である深田久弥が激怒した。「平凡でつまらない、なぜ悪沢岳と呼ばないのか」と。冒頭で述べたような「悪」の字の希少性に惹かれたのだろう。天下の国土地理院の記載ゆえに余計に強く抗ったのかもしれない。
しかし山のカリスマ:深田の影響力は侮れない。少なくとも登山界では「悪沢岳」で通り、遂にはお堅いはずの国土地理院も折れ、今では地図上にも「東岳(悪沢岳)」と記載されているのである。泉下の深田もニンマリしていることだろう。
深田が拘るだけあって山そのものは雄大で素晴らしい。遠方の山からでも群を抜いてピラミダルに眺められるし、近隣の南アルプスからは角度によって三山の重なり具合が様々なバリエーションを見せてくれる。実際に登ってみても、山頂での大展望は元より、森林限界を優に抜き、起伏の激しい三山踏破は豪快そのもの。前岳南面にはわが国でも有数のお花畑が広がる。
さて「山のワル(悪)」とはどんな山だろう。人間目線で想定すれば、遭難者の多い山がワルだろうか。それなら悪沢岳はさほどのワルではない。標高が高く奥深いが、稜線に営業小屋と避難小屋があり、迷いやすい様なポイントも少ない。なにより、それなりに覚悟のある人しか上がってこない。結果として遭難者は少ない。悪沢岳は、ワルはワルでもちょいワル程度といっておこう。
◆おすすめコース
椹島-千枚小屋(泊)-悪沢岳(往復13時間:中級向け)※椹島までの交通手段に留意のこと
◆参考地図・ガイド ◎昭文社:山と高原地図43「塩見・赤石・聖岳」