「全体の奉仕者へ」 カジノを問う 最終回

 エイアル・シヴァン監督のドキュメンタリー映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」には、ナチス政権下においてユダヤ人を絶滅収容所へ移送する指揮を担ったアドルフ・アイヒマンを裁いた、いわゆるアイヒマン裁判の様子が収められている。

 アイヒマンは戦時中の限られた人員、予算、鉄道網などを最も合理的かつ効率的に使いこなし、数百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へ移送していた。送り届けた後にユダヤ人がどのように虐殺されるのかを自らの目で視察したことがありながら。

 裁判の中で自身の犯罪行為を問われると「反抗はしなかったが自ら望んだ行為ではな」く、上司からの「命令を受けて実行」しただけであり、「その責任は命令の側にあった」し、「時代の問題だった」との官僚答弁に終始している。

 伝統的な認識でアイヒマンを語るのであれば、仕事と出世に関わる合理性、効率性以外の基準では思考することはない、上司の命令を淡々と確実にこなす「凡庸な官吏」そのものである。

 たとえどんなにヒトラーが演説で声を張り上げようとも、公務労働者が執行しなければ大量虐殺は不可能である。

 ナチス政権下の公務労働者には住民の立場に立つという公務労働者として最も大切な視点が欠けていたのだ。

 12月4日に行われた横浜市のIR説明会後のぶら下がり取材で、記者から住民の反対の声が大きくなった場合の対応を問われた林市長は「そういった理由で撤回することは考えていない」「丁寧に説明してご理解いただく」と、自身が住民自治を実現する首長ではなく、あくまでカジノ資本の代弁者としてカジノ資本に富を集積する意図と、住民の苦難を顧みない態度を隠さなかった。

 しかし、私たち公務労働者は「ここに、主権が国民にあることを認める日本国憲法を尊重し、且つ擁護することを固く誓い」職務に就いた。つまり「全体の奉仕者」として、住民の福祉の増進(地方自治法第1条の2)が任務であり、カジノ資本や大株主、政権与党などの一部へ奉仕することがあってはならない。

 現実には歴代の保守政権によって憲法が形骸化され、米国による対日支配と大企業の利益の最大化を目的とした非民主的で国民生活を犠牲にする国の下請けとして地方行政が運営されている。

 だが、憲法で保障された主権在民、基本的人権、平和主義、地方自治を長期に渡って全面否定することは不可能である。

 今立ち現れている「カジノ時代」の行政に対置して、常に憲法に立ち返り憲法に即した実務とはどうあるべきかを交流し、学び、その実践を支える労働組合運動の確立が益々急がれている。