(第3回) 高度成長する「死の商人」

 1964年の東京五輪にあわせた、東海道新幹線、首都高速道路、国立競技場などの交通網整備と施設建設が終わった反動で、1965年に日本経済は不況を経験した。ところが、翌年には回復。急速な環境破壊、公害を激化させながら、1960年代後半も、日本では重化学工業を中心とする経済成長が継続することになった。

(第2回) 「類なき関係」への再編 を読む

 何がそれを可能にしたのだろうか。資源に恵まれない列島におりながら、真面目で勤勉な責任感の強い日本人の優秀さが奇跡の発展を確かなものにしたのか?
 そうではない。戦争特需が再来したのだ。

 ベトナム全土の統一と共産化が進めば、周囲の東南アジア各国に共産主義が波及するに違いない。かように恐れた米国は、1965年、北ベトナムへの恒常的な空爆と、最終的には1973年までに延べ300万人規模ともいわれる地上軍を投入した本格的な軍事介入に乗り出した。

 日本から米国に対して輸出されたのはナパーム弾、枯葉剤の原料、死体袋など。

枯葉剤の被害は今も(ホーチミン市の病院)

 占領下の民主化政策によって解体されたはずの財閥は、露骨な「死の商人」として息を吹き返した。加えて、軍隊が必要としたコンドーム。治療や休養のために日本を訪れた兵の購買行動によるインバウンドまで。特需が舞い込んだ産業は広い。

 さらに1967年、侵略戦争と並行して、反共主義の立場をとるタイ、フィリピン、マラヤ連邦(現・マレーシア)、シンガポール、インドネシアの5か国によるASEANが米国の支援で設立される。これら反共独裁国への日本の輸出も飛躍的に拡大した。自前の軍隊を用いることなく、日本は、帝国主義的征服と変わらない輸出市場の確保を達成したわけである。

 ただし政府は、年率10%超の高度成長を続けるほど大きな利益を上げたベトナム戦争の影響を殆ど報告しなかった。1965年から1971年までの特需を計算した1972年の日本銀行調査庁も、それを目立たせないことに腐心した。米軍支出と南ベトナム向け輸出に限定し、しかも1964年実績を超える部分だけを取り出して、沖縄を対象から除き、わずか22億11百万ドルと報告している。

 そのころ、反戦運動は、「ベトナムに平和を!市民連合」の有名なスローガン「殺すな!」に象徴されるように、第二次世界大戦の経験から、米国の戦争に巻き込まれることに反対すると同時に、侵略戦争への加担を問題にしていた。戦争への注目は減らしたい。世論の高まりで体制が揺らぐことを支配層は心配した。経済効果を宣伝できるはずもなかった。

(第4回) 「安保繁栄」論の破たん を読む