1997年7月、タイの通貨暴落を発端とする「アジア通貨危機」が発生した。
成り行きはこうだ。まず、先進諸国の過度な直接投資は東アジアに過剰生産を生み、96年にタイで輸出成長が崩壊。タイバーツを割高と判断した米国のヘッジファンドが大規模な空売りを仕掛けた。巨額の富が米国の手に渡る一方で、タイ、インドネシア、韓国の経済は甚大な打撃を受け、世界的金融危機へと発展した。つまり、危機は米国が世界的な金融覇権を狙い、国際的な資本取引の自由化を徹底的に推進した結果である。
しかし、『米国経済白書1999』は、アジア資本主義の特質ともいえる長期的な視点で経済発展を目指す金融制度を「縁故による貸付、そして時には不正な信用慣行が、危機国の金融セクターをもろくした」と断定。日本がアジア通貨基金を創設して危機を乗り切る構想を打ち出したものの、危機に乗じてさらに金融覇権拡大を狙う米クリントン政権は、それを葬った。
通貨危機とほぼ時を同じくして橋本政権は、消費税率を5%に引き上げ、個人所得税の特別減税を廃止し、勤労者の医療費自己負担を1割から2割に引き上げ、高齢者の医療費負担増などによって9兆円にもおよぶ国民負担増を強いた。しかもバブル崩壊と通貨危機により表面化した日本の金融機関の不良債権問題を甘く見たことにより、97年の三洋証券を発端に、北海道拓殖銀行、山一證券などの破綻や廃業が続く。厳しい景気の局面は、日本を経済大国時代の終焉に追い込んでいった。
ところが橋本政権は、米国から「年次改革要望書」によって迫られていた日本版「金融ビッグバン」をこの混乱に乗じて強力に推し進める。
98年6月には「金融システム改革法」を成立させ、日本の金融システムに米国主導の「国際基準」を採用し、米国の金融資本が日本国内で自由に振る舞える環境を整えた。
その後、破綻した長期信用銀行の「再建」を日本政府や金融再生委員会から任された米ゴールドマン・サックスは2000年に長期信用銀行を米国の金融持株会社に売却。名前を「新生銀行」に変えて04年に東証上場するとともに株式の売却で稼ぎ出した利益は1千億円にもなった。
とはいえ、21世紀に入ると90年代の米国の好景気も終わりを迎える。クリントン政権からブッシュ政権へと代わった2001年、その年9月11日にハイジャックされた旅客機2機がNYの世界貿易センタービルに突入。崩れゆく米国経済の「象徴」がテレビに映し出された。米国本土「聖域」神話の崩壊と、泥沼の「対テロ戦争」が始まる。
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