1893年6月26日、3人の囚人が無条件で釈放されました。すでに処刑された4人も冤罪と認められたヘイマーケット事件は、労働者を過酷な長時間労働に縛りつけ続けようとする経済界の求めに行政が応じたことで生まれた権力犯罪でした。事件の犠牲者となった労働者の精神は、いまも労働者階級のたたかいに生かされています。
1886年のシカゴから
1886年5月1日のことです。シカゴ、ニューヨーク、ボストンなど1・5万を越える工場の労働者38万人以上がストライキに入りました。12~14時間労働が当然だった時代に決起して、瞬く間に20万を超す労働者が8時間労働制を獲得していきます。
平穏な労働者の闘いの裏で、経営者たちは薄汚い反動を準備しました。2日後の5月3日、シカゴの機械労働者4人が警察官に射殺されます。翌4日、労働者たちがヘイマーケット広場で抗議集会を準備すると、雨の中、平和的な群衆の後ろから180人の警察官が殴り込んできました。何者かが爆弾を投げ込むと、あらゆる方向に警察官が発砲。経営者は、労働組合のリーダーを犯人にしたてあげ、8時間労働制の約束を次から次へと破棄していきました。
国際連帯が大きくした闘い
米国の労働者は諦めませんでした。
1890年5月1日に再度ストライキで8時間労働制を要求することを決めます。ちょうどフランス革命百周年の年のことです。
第2インターナショナルの結成集会で米国労働者が呼びかけると、西欧、中東欧、オーストラリア、ラテンアメリカなど世界各地の労働者が集会とデモで応えました。
こうして、メーデーは労働者の祭典として世界各国で取り組まれるようになります。
そして1917年、ロシアで革命が起きると、初めて法律によって8時間労働制を定めた国が出現しました。
1919年には、国連初の専門機関であるILO(国際労働機関)の第1回総会が開かれます。総会では「工業的企業に於ける労働時間を1日8時間かつ1週48時間に制限する条約」(第1号)が採択されました。さらに1930年には第14回総会で「商業及び事務所における労働時間の規律に関する条約」(第30号)が採択されて、8時間労働制は、国際的労働基準として確立するに至りました。
現在では、80を超す国が5月1日を国際的な祭典の日として祝日に定めています。
働くのは8時間
あとは自由な時間を
日本の政府はいまだ2つの条約どちらにも批准していません。日本の労働者は長時間労働を強いられており、それと並んで失業を押し付けられている人々もいます。
資本は国境を越えて、人間による人間の搾取を続けています。労働者は、国境を越えた国際連帯によって互いを励まし合い、国際労働基準を活用して誰もが8時間働けば人間らしく暮らせる社会が実現する日まで、たたかい続けなければなりません。
メーデーの歴史は、今年も終わっていないのです。
参考文献———
小原敬士「ヘイマーケット事件:アメリカ労働問題史の一齣」(『一橋論叢』57巻5号、1967年5月所収)