武蔵村山市の住宅街。自宅の敷地に建つ「PTSDの日本兵と家族の交流館」。「子ども図書館」でもあり、来館者の8割以上が子どもたちです。館長の黒井秋夫さんが「これが断然人気」と教えてくれたのは「うまい棒」でした。お菓子がただで食べられる「ただ屋」の呼び名で親しまれ、戦争の悲惨さを伝える「体感型資料」の戦争遺品に触れることができます。
お知らせ
家族の思いと願い証言集会
復員日本兵4人の家族が証言します
8/7(日)13時~16時
武蔵村山市民会館 小ホール
資料代500円(学生300円)
後援:武蔵村山市、武蔵村山市教育委員会
※要予約
プロフィール
黒井秋夫さん
PTSDの日本兵と家族の交流館(村山お茶飲み処・子ども図書室)の館長。交流館入口には降伏の「白旗」を掲げ、反撃=暴力の連鎖を断ち切ろうと訴えています。白旗は黒井さんのパートナーが手縫いしたもの。8月7日の「証言集会」や戦争遺品の寄贈、交流館の開館日等の問い合わせは黒井さん=電話080(1121)3888へ。
「8月7日に武蔵村山市民会館で開催する報告会の準備をしているところです」
武蔵村山市と同市教育委員会が後援する「PTSDの日本兵の家族4人の思いと願い証言集会」では、日本近代軍事史の研究で名高い吉田裕一橋大学名誉教授の記念講演も予定しています。集会後の記者会見には、戦争と精神医療の歴史の数少ない専門家、中村江里広島大学大学院准教授も同席するそうです。
黒井さんが広く伝えようとしているのは、日本兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)と父・慶次郎さんのことです。中国戦線に7年従軍し、軍曹として終戦を迎えました。
陸軍の「善行証書」を授与された記録が残っています。勤勉、品行方正、優秀な軍人を表彰するものです。
ところが黒井さんの知る父は、1989年に76歳で亡くなるまで、生涯定職に就くことはありませんでした。
「尊敬とは真逆の感情を持っていましたね。父が生きている間の自分の人生は、父を反面教師にしてきたようなものだったわけです」
「自分には父が不可解でした」
家族のほうを向いて笑うこともなければ、孫の顔を正面に見て言葉を発することもありませんでした。
「心壊れて、ぶざまで、抜け殻のようでしたね」
黒井さんはのちに「ひょっとしたら戦争神経症だったのではなかったか」と考えるようになりました。
ベトナム帰還兵 殺した人が夢に出てくる
2015年、観光目的でピースボートに乗ったときです。
「南回り航路でした。沖縄、中国、ベトナムへ行く途中、米国のベトナム帰還兵のことを知りました」
新潟県出身の日本人で米国市民権を持つ平和活動家、レイチェル・クラークさんが船内紹介したDVDは、『9条を抱きしめて』でした。貧困生活から逃れる目的で入隊し、沖縄での訓練を経て戦地へ派遣された元海兵隊員アレン・ネルソンの証言を追うドキュメンタリーです。
「100人単位で人を殺して、帰ってきて、夢の中に彼らが出てきて、PTSDで家庭が崩壊していくんです。ほとんど物を言わなかった父と重なりました」
侵略戦争の嘘 〝砲弾病〟皇軍に皆無
「それまで日本軍兵士にPTSDがあるなんて、考えも及びませんでした」
戦中、日本兵の精神疾患は、軍部によって隠され続けてきたからです。
たとえば、1939年4月5日の読売新聞には、「大戦名物の”砲弾病”皇軍に皆無」の見出しが躍っています。
無謀な侵略戦争。事実は国民に知らされませんでした。すべては国威発揚のためです。
実際には、手足を震わせ歩けない者もいれば、奇声を上げる者もいました。国府台陸軍病院(現・国立国際医療研究センター国府台病院)に集められたのは、1万人を超す戦争神経症ほかを発症した兵士たちでした。
遺族や研究者の手によって史実が明らかにされていくのは、ごく最近のことです。
敗戦直後から今日に至る日本社会は、復員兵が壮絶な体験を語ることを受け入れる準備もしてきませんでした。
帝国主義 暴力で日本が得たもの
「一番身近にいて戦後社会を体現していたのが自分だったのかもしれない」と黒井さんはテレビの取材に語ったことがあります。
「父は戦争の加害者でした。その父にとって俺が加害者だったわけです」
いま一切の戦争に反対し、暴力によらない解決を提唱しています。
「朝鮮支配や中国侵略で、日本が得たものがあっただろうか。韓国の1人あたりGDPは日本を抜き、中国がこれだけ強大な国になっています。日本の軍国主義と帝国主義は、エネルギーを間違った方向に使ってしまっただけなんではないか」
「日本は、対米戦争の長期化に持ちこたえようとして、インドネシアで地下資源を強奪するために200万人を殺したと言われています。先日その日本の首相が訪問してロシアなどを念頭に『力による現状変更を容認しない』ことの同意を求めています。果たしてどのような感情を持たれているでしょうか」