「心頭滅却すれば火もまた涼し」 武田家の菩提寺であった甲州の恵林寺が織田勢の焼き討ちにあった時に、住職の快川禅師が火中で決然と唱えた韻文である。恵林寺の山号は乾徳山、その名が寺の背後彼方にそびえる鋭峰の山名となった。「山号=山名」の中では最も有名な山だろう。鋭く天を衝く三角錐が塩山駅付近からもよく見て取れる。著名な寺院の名を受け継いだのも納得できよう。イケメンで標高も十分、そしてハイカー好みの愉しみが多種詰まった山。それゆえか易しくはないのに、人気の峰となっている。
高低差のある急峻な山なので、登山口からきつい登りが続く。山中に忽然と湧く清冽な水場を抜け、シラカバなどの疎林が広がる高原調の一角を過ぎると、森を抜け草原状の大斜面となって背後の展望が開ける。また、この付近から名物の岩が点在、それぞれに如何にもといった感じの名がついて楽しませてくれる。ほどなく、足元を含め全体が岩がちになり、傾斜も急峻になって、下界から見えた鋭峰に近づいたことがわかる。越えがたい岩には、登頂者を試すかのような梯子や鎖が付いていて、一つひとつクリアしていく。ただ、手がかりになるような岩角が多く、鎖に頼らずとも3点確保※で確実に登れる。こうした特徴から、アルプス登山の道場的な役割を乾徳山に見出す人も多い。
いよいよ頂上直下になって、眼前にラスボスよろしく立ちはだかるのが鳳岩だ。高さは20mほどだが、下半分は直角に近いような角度の一枚岩で、こればかりは鎖に腕力ですがり、よじ登らなければならない。実は迂回路があるので、この岩の上りは省略できるのだが、泉下の快川禅師の声が聞こえてはこないか。「鳳岩こそ法敵信長と思し召せ。こやつを破りし者には天界が開けようぞ!」
苦闘の末に巨岩を制覇すると、三角錐の頂点:山頂はすぐそこ。遮るものの無い岩峰だから大パノラマが広がり、特に甲州盆地を前面にそびえる秀麗な富士山が絶品だ。困難な道のりを乗り越えてこその悦楽。山上での高度の精神性は、冒頭の韻文に通じるものがあるのかもしれない。
◆おすすめコース
乾徳山登山口―国師ヶ原―乾徳山―道満尾根―登山口
(6時間:中級向け)
※3点確保:岩登りの基本技術。四肢の内、三肢は岩に付けた上で、1肢のみを動かす。これを1歩ずつ繰り返す。